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本と酒と怠惰

四九

田植の始まる季節。六月。
あと一週間で母の誕生日。
愛犬の命日。

私は家を出た。

黄色のベンツがまぶしい田んぼ道を、ずんずん進む。進んで、進んで、辿り着いたのは初めて彼と愛犬とお話したところ。

愛犬が草を食んでいる間、どんな話をしただろう。いまとなっては思い出せない。
思い出せないのが一番だ。
人間は忘れゆく生き物。忘れるからこそ、生きられる。忘れられない者は過去に縛られ、引き摺られ、心が壊れてゆく。
私は後者だ。
田んぼを臨んでいるように見えて、その実、何年か前、そこに座ってお喋りをしていた私と彼と草を食む愛犬を見ている。
また進む。
その曲がり角を折れたら、紫色の花が咲いているはずだ。あった。これは祖母と育てたことのあるものだ。また、過去がやってきた。いつまでも、どこまでも、過去がついて回る。
また進む。進む。進む。進む。

あてもなく、風に抗い力強くはないけれど、それでも。
"前に進むしかないのだ。"